維水志のルーツを探る旅 その3
大口通り商店街にやってきた。
そりゃあもうお世話になったもんだ。
大口駅方面から歩いてみる。
特に世話になったのは本屋とレコード屋だろうなあ。
その本屋で教科書の仕分けのアルバイトをして、稼いだ金でそのままKissのレコードを買ったのだ。
けど、その店はもうなかったよ。
実は数年前、商店街のすぐ裏に実家のある友人のお父さんのお葬式に参列した際、何十年ぶりかにここを訪れているので、その変貌ぶりは知っていた。
商店街の脇からさらなる商店街が伸びる。あけぼの商店街だ。
ここは以前の面影をそのまま残しているかも。
これ、確か洋服屋さん・・・・?
もう何年もずっとシャッターが閉まったままのようだ。
商店街はやがて国道1号で分断される。
国道を挟んで京急の子安駅側が第1か第2商店街のどちらかだったな。
子安側のほうが飲食店が多かったかな。昔、山田うどんがあった記憶がある。
まだ本当にセブンイレブン、つまり朝7時オープンで夜の11時閉店の頃だわね。
それが今はこうして国道沿いに移転したのか。
国道の向う側が先ほどの維水志の実家があったあたりである。
喘息の発作が出た維水志少年が、向うの方から、さらにここからちょっと横浜駅方面に歩いたところにある小児科へ、休み休み苦しんで歩いてくる姿が目に浮かぶ。
気管支が狭まって呼吸が困難になるから、平坦な道を歩くだけでも辛いのだ。ヒューヒュー喉が鳴るんだ。
母ちゃんが車の免許を持たないし、かと言ってタクシーを呼ぶほどの距離でもないので自分で歩くしかなかった。
やあ、あの蕎麦屋、まだあるんだ。
あそこ辺りがちょうど中間点ぐらいだったかしら。
暫くあのあたりで長く休んだ覚えがある。
相模原にいて発作が出たときもわざわざ横浜にあるこの小児科まで注射を打ちに来ていた。
で、その小児科に行くと、お尻に注射を一本打たれるわけだが、幼児期は痛さと怖さがあったものの、中学生ぐらいになるともう注射慣れしていた。
注射を打つ場所も、お尻から上腕へと変わったか。
不思議なもので、その注射を1本打った数分後には嘘みたいに、すーっと呼吸が楽になるのである。
一体、何の注射だったんだろ?ステロイド系のものかしら?
小児科なので、周りは小さな子供を連れたお母さんだらけだった。維水志のような大きい、中学生ぐらいの子供はいなかった。
当時は、「喘息も大人になるにつれて良くなる」、とこれまた根拠のない説があったわけだが、維水志の場合、二十歳を超えても喘息やアトピーに苦しまされた。
20代も半ばのある時、アトピーがひどくて皮膚科に行った。
そんときパッチテストをやって初めて「ハウスダスト」がアレルゲンと知り、布団を敷くときや、今日はヤバそうだと発作の前兆を感じたときにマスクをするなどの対策をやるようになり、ようやく発作が出なくなったわけだ。
それが分かった時の衝撃はなかったな。
人の家に宿泊したりすると、普段使ってない布団を出すんで即発作が出た原因が判明したのだもの。
修学旅行で枕投げなんかやったら完全にアウトだわよ。
そんな苦しみも今となっては懐かしい。
今はもう発作は出ないが、頭皮と脇の下のアトピーがたまにひどくなるのと、慢性鼻炎があるぐらいだな。
いい加減、お付き合いを辞めて頂きたいので、カルピスのなんちゃら乳酸菌を試してみようかと思っている。
けどまあもう体の一部だな。
そのおかげかどーかはわからんんが、花粉症等は一切ないのである。
インフルエンザにもかかったことがない。
さて、商店街の裏側に行ってみよう。
ここも昔、通学路の一つになっていた頃がある。
いやー・・・・。
こっちゃ、完全に昭和のままだ。
一歩中に入るとこんなかあ・・・。
やっぱこれが横浜だわ。
オシャレな街や新興住宅地などは横浜とは言わぬ。
横浜線のガード下だ。
維水志んちからは横浜線、京浜東北線、京浜急行の駅へのアプローチが全て徒歩8分以内で可能だった。
横浜線から一駅乗れば、東急にもアプローチできるわけで。
この利便性と言ったらなかった。
それゆえ、高校生になって、緑区に家のある友達の家に駅から徒歩で行ったとき、「駅から近い」というわりに20分近くも歩かされたので、「遠いじゃんか!」と文句を言うと、「近いじゃんか!」と返されたことに、文化の違いを感じたのを覚えている。
緑区は田舎である。
けどそうだとしても、やはり駅から徒歩20分はやっぱ遠いだろ。
あら、なんであそこだけ鉄柱で囲まれてんだろ?
あそこは・・・・、
フライ屋「みよこ」があった、神聖な場所なんだぞ。
フライ屋「みよこ」とは、屋台の、今で言う串揚げ屋だった。
「ソース二度付け禁止」のような文化があったかどうかは覚えていないが、学校帰りによくここでサケウチと買い食いした。
一番好きなのが鯨フライだったんだけど、ちょっと高め(高めと言っても80~100円ぐらい)だったので、たいていは1本30円ぐらいのジャガイモのフライを食べていた記憶がある。
その名称も実は本当ではないようで、例によってサケウチが付けたものだった。
その屋台のおばちゃんには娘がいて、手伝いに来ていたのか、たまに見かけることがあった。
サケウチによると、その娘の名前が「みよこ」だったらしい。カバンか何かにそう書いてあったのかな?
で、その神聖なる場所が何故このようなことに?
今でもなんか違法な屋台とかが出回っているのかしら・・・・・?
まさか、ねぇ・・・。
再び商店街へと戻る。
が、途中に、
クーーーール!
いやー。
実はこれは氷山の一角で、こうした廃屋みたいなのがここかしこに点在しているのだった。
あれかな、持ち主がこの世を去って、引き継ぐ者もいないのかしら?
子孫のいない維水志邸もいずれこうした運命を辿るのかしら?
それにしてもこの電柱、すごいレトロだわ。
コカ・コーラの看板だわ。
付近には、こうした家を撤去したのか、草ボーボーの空き地も見かける。
再び商店街へ。
やあ、ここも随分とお世話になった。
「かまぼこ」、というより維水志にとっては「さつま揚げ」の店、「能登屋」である。
ここのさつま揚げが美味いんだ。
維水志家のおでんには必ずここのさつま揚げが入っていたものだ。
一番よく食べたと思われるのが、この「ふかがわ」?と呼ばれるタイプのやつ。
う~む、どれがそれだか写真ではわからぬ。
相変わらず、ぷりっぷりで美味いわぁ(*´ω`*)
こうして変わらずにずっと同じものがあるってのはいいもんだね。
さ、じゃあここまで来たら、母校も見てみようか。
つづく。
にほんブログ村←いつも応援ありがとうございます。
ポチっ、とひとつ、よろしくお願いします。