維水志のルーツを探る旅 その1
維水志が生まれた街は横浜の海岸沿い、いわゆる商業地区である。
なので自分の中での「横浜」とは、中区、西区、神奈川区、鶴見区等、沿岸沿いを指し、それ以上内部や、横浜駅から随分と遠ざかるエリアは横浜とは言わないのである。
で、住まいも非常に交通量の多い国道1号と15号の間にある下町もいいところだった。
だからかどうかはわからないが、育ちは決して良いとは言えず、ガラが悪い。言葉遣いも汚い。自分で言うのもなんだが・・・。
それで、とにかくそれらほぼ平行に走る2本の道路の距離が限りなく近づくエリアなもんだから騒音がハンパなかった。
夜でさえパトカーや救急車のサイレン、大型トラックエンジンの轟音が鳴りやまない。
その国道1号と15号が「いちこく」と「にこく」と呼ばれていたのは謎だったが、いま改めて地図を見てみると、第一京浜と第二京浜を略したものだったのかしら?しかもそれだと1号が「にこく」?
不思議なもので、そんな騒音が酷いところでも寝られてしまうのだから、人間の適応能力というのは凄まじい。
だからかどうかは知らないが、旅行などでイビキが相当うるさいメンバーがいても寝られるというスキルを身に付けているのである。
だが当時、喘息持ちの維水志にとって、こうした空気の悪いエリアに住むのは良くないとされていた。
タバコの煙が嫌いなのも、そういったことが原因なのである。
けれど今の医学からしたらそんなの全然関係なかったわけで・・・。
アレルギー体質の維水志のアレルゲンは、実はハウスダストでした、なんて事実が発覚したのはもうだいぶ大人になってからだった。
排気ガスとか動物の毛が良くないとか、一体、何を根拠としていたのだろう?今考えると笑ってしまう。
それでまあ、生まれと実家は横浜だが、保育園・小学生時代は親父の仕事の関係で相模原で過ごした。
なのでその間、実家は「おばあちゃんち」であり、どのくらいの頻度で来ていたかは覚えていないが、来れば必ずと言ってよいほど訪れていた近所の「ひぐち」と呼ばれる駄菓子屋のことははっきりと覚えている。
で、小学校を卒業すると同時に横浜に戻ってきたのである。
そこから中高を卒業し、大学在学中に諸々の事情で実家を売り払うことになるまでそこに住んだ、ということは・・・・、なんだ、じゃあ実質10年ぐらいしか住んでないわけか。
まあでも、青春時代真っ盛りの多感な時期を過ごしたわけだから思い出はいっぱい詰まっていると言える。
そんな場所を久しぶりに訪れることにしたわけだが、たぶん・・・・四半世紀ぶりになるのかもしれない。
そんなに長い間リターンしていないのも、そこを出ていく頃のすったもんだがあまり思い出したくない事実であり、近所にいた知り合いももう住んでいないから、という理由が考えられる。
ホテルニューグランドのランチを終え、第一京浜から実家のあったところへアプローチした。
目的地が近くなるにつれ、懐かしさで何かがこみ上げてくる感じがした。
一人で奇声を発していたかもしれない。
中高と同級生だったサケウチの実家があった辺りか、あるいは銭湯があった辺りかは定かではないが、今はコインパーキングになっていたのでそこに車を停めた。
あわわ・・・・超懐かしんですけど・・・・。
写真の、今、車が停まっているところに実家があった。
我々が出ていくとすぐに駐車場と化してしまったことは知っていたが、あれからずっと変わっていないんだ。
こうして、住んでいたところが跡形もなく無くなっているというのも残念な気がする一方で、他の家が建っているのを見るよりはましなのかもしれない。
ちょうど黄色い線あたりまでが自分ちの敷地だったかしら。
狭い土地に住んでいたのねぇ・・・・。
この車のディーラーの工場が出来たのは高校生の時だったか、それまでは空き地でそこでキャスティングの練習やキャッチボールをした記憶がある。
それが出来てからは、風呂の窓からちょうどブロック塀あたりが見えていたろう。
築何十年だったか、大工の棟梁だった祖父が自分で建てたとされるその家は親父を筆頭に5人兄弟計7人(母ちゃんが嫁いで維水志が生まれてからはマックス9人?)が暮らしていたということもあり、もうクソボロであった。
相模原から戻ってきた時には、じいちゃんはすでにこの世を去っていて、末っ子、つまり維水志の叔父を除く他はみな結婚して独立をしていたから同居はなかったが、それまでの埃は溜まり放題だったろう。
ハウスダストの温床と言ってよい。
そんなところに住んでんだもん、疲れるとすぐに喘息の発作が出たのも頷ける。
家は祖父または親名義だったが、土地は他人のモノだった。
こんな土地でも親たちが、借り物でなくちゃんと計画的に地主から買って自分名義にしておけば、子孫がこんな苦労することなんてなかったはずなのに・・・・。
この狭さでもたぶん今の維水志邸の土地より数倍高いぞ。
お陰でこの歳になるまでずーっと流浪の民をやらねばならなくなったさあ。
でも、お陰で今の恵まれた生活がある、とも言える。
そんなつまらん話をマイハニーにしながら近所を歩いてみる。
中学ぐらいまで近くに長屋があったが、さすがにそれはすでにその頃取り壊されて駐車場になっていたが、今は集合住宅が建っていた。
駄菓子屋「ひぐち」があったところへ行ってみる。
その前にはよく遊んだ公園があるのだ。
「ひぐち」・・・。懐かしいなあ。
老夫婦が営んでいた駄菓子屋だ。
じいさんは耄碌してしまったのか、あまり店頭で見かけることはなかったが、ばあさんのほうはかなりしっかりしていて子供に優しくない感じだった。
もちろん自分を含めたクソガキに対処しないといけないから自然とそうなっていたのだろうけども、そーいや同級生のサケウチは「ひぐちのばばあ」と呼んでいたなあ。
駄菓子はもちろん、くじで引くスーパーボールとか、暗闇で光るおばけのカードとか、ウルトラマンのブロマイドとか・・・・。
そしてここはもんじゃ焼きやらかき氷なんかもやっていたのだ。
なんつっても目前が市営プールが併設されている公園なのだ。
夏、おばあちゃんちに来たときは、そこのプールで泳ぎ、帰りはひぐちでかき氷、というのが定番だった。
そのプールが・・・・・・、
い、未だに健在だなんて!
信じられん・・・。
子供用と25メートルの大人用のプールがあるのだ。
子供用のほうは「しょんべんプール」とか揶揄されていたが、それがまだあるだなんて・・・・。
ロッカーもあるが、もう実家から水着で歩いて来られる距離だったので利用したことはない。
強制的にシャワーを浴びせられる通路を通ってプールへ至るのだ。
中の様子を伺おうとしたのだが、昔にはなかったはずの塀に阻まれてよく見えない。
変態とかが出るからかもしれない。
それでも隙間からチラ見してみたが、基本的には変わっていないようである。
ああ・・・。
なんか不思議。
大部分がすっかりと変わってしまっている一方で、時が止まったままのごとくそのままの姿で残っているものを見るとなんと表現していーのかわからんぐらい不思議な気分に襲われるのだった。
そんなのを、この先もまだまだたくさん目の当たりにするのだった。
つづく。
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