老いる交換
最近、腿の付け根あたりや膝の裏側が常に突っ張ってる感じがしていて、寝る前のストレッチが欠かせない。
以前と比べ、通勤時に歩く速度も明らかに遅くなっていて、速足で歩こうもんならすぐに筋がおかしくなるのである。
明らかに体力の衰えを感じる。
薄暮の中、小さい文字が読めなくなるショックからそんなに年が経っていないうちにこのような体力の衰えを感じるようになっちまうのか。
これは体を鍛えることで改善する余地はあるのだろうか。
筋力をつけようにも、そのエクササイズをする時点で体に感じる負荷が大きすぎる気がする。
昔と同じような力の入れ方をするから無理が生じるんだろうな。
きっと負荷を軽くしてやれば少しずつ復活できる気がしないでもない。
そんなことを考えていると、「もう若くないんだ、バイクもいつまで乗れるんだろう」という不安を感じるのだ。
若い、ってのは、いいなあ・・・・。
と、思うんだけど、ふとこうも思う。
若いってのは本当にいいのかなあ?
確かに体力面や将来の可能性の大きさを考えると、若いに越したことはない。
けれど、「自由」という側面から見ると、維水志の若かりし頃はかなり不自由な人生を強いられていた気がする。
まず経済面での自由度はかなり制限されていただろう。
維水志の家庭は借金にまみれていたから、社会に出て収入が得られるようになってからのほうが酷かった。
大学生時代の塾講師のバイトの収入のほとんどは授業料にまわした。
就職してからは収入のほとんどを家に入れていて、思い通りにできることはほとんどなく、そのせいで根性までひねくれていた。
むしろ家計の事情がわからない高校時代のほうがわがままを言って好きなものを買ってもらえた分自由度があったかもしれない。
わがままと言ったって、仲間との付き合いで、日々の少ない小遣いで賄いきれない分を要求したりする程度だ。
大きな買い物ったってエレキギターを買ってもらったぐらいだったような気がする。
その後のエレキベースは自分でバイトして買ったんだもの。
結局、周りと比較をするからいけないのだろうけど、他の人と比べて何で自分はこうなのだろう、という鬱屈した思いが募っていった。
そして裕福な人、有能な人、性格のいい人などを羨み、ひがみ、そういった人々を否定することで自分を慰めているという、これまた精神面でも非常に不自由なのだった。
他人の成功を素直に喜べないだなんて、心が本当に不自由である。
電車の中で若いのに優先席に座っていたりすると、「あいつは体ではなく、心が不自由だから仕方がないのだ」と蔑んでやるのだが、実はそういう意味で一番そこに座らなければいけないのは自分だったのだ。
今はそうではないのか?と問われると、きっとそういう側面が未だに根付いていることは否定できない。
けれど、そういう卑しい根性を持っていることや、自分の小ささを恥ずかしく感じるようにはなっている分、今の方が救いがあるような気がする。
なにか、若い頃と比べ、心にはだいぶ耐性が付いたような気がする。
少々のことでイラつくことや不安になることが今でも多いことは否めないが、それを引きずることが少なくなった、と言える。
そしてそこに大きな自由を感じ始めている。
そうなると、自分の思い通りにならないことがあったり、不快な思いをさせられたりすることがあっても、「ああ、もうそんなんどーでもいーや」と軽く流せるケースが増えて行くのである。
心が楽だ。
老いる、ということはそういう耐性も自然に身に付いてくることなのかもしれない。
まさに「老いる交換」である。
そーゆー意味では若いときってのは牢獄に入っているような不自由な身だったんだなぁ、と思う。
これから、もっと自由になりたいものである。
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